昭和49年03月10日 月次祭
教祖様の御理解の中に、世界中の氏子におかげがやってある。受け物が悪ければおかげが漏れるぞと。神様は一様におかげを下さってあるのです。と言う事はどう言う事かというと、是は人間だけの事ではありますまいけれども、先ず人間氏子として皆んな誰でも幸福になれれる内容を持っておると言う事を下さってあるのだと。頭が良いから幸せになれる、頭が悪いから不幸せ器量が良いから、悪いからでは決してない。ね。頭が良うても悪うても器量が良うても悪うても、ね。
寒い国に住んでおっても、暑い国に住んでおってもおかげは一様。その一様というのは、ね。本当に私の様な幸せな者があるだろうかと思えれる幸せ、所謂人間の幸福になれれると言う事の内容を持っておると言う事。それを神様下さってある。但しおかげの受け物が悪いと漏るぞと言う所から、不同になって来る訳であります。皆んなが幸福になれれる、私はねそう言う人間が幸せになれれる事の為の願いというか、運動というかそう言う物が合楽教会で言われております。ね。
それが例えば五つの願いであるとか、又は和賀心時代を創ると言う様な、事で御座います。世界中の氏子が五つの願いを本気で願う様になり、世界中の氏子が幸福の原点は和賀心にあるんだと合点して、その和賀心にならせて頂く事を願い、五つの願いを願わせて頂けれる様になる、その大本の願い祈りと言う物を、合楽からまあ此処がそれの発電所の様な物だとう位なね、気持ちで皆さんが願わなければなりません。世界中にこういう有り難い、念というか思いと言う物を。
世界中に是が響き渡って行く様な、おかげを頂かなければなりません。先程教衣を着けさせて頂いております時に、家内が今日は寒い寒いと申します。今日はそげん寒か日じゃなかぞと、どうも風邪ひきおるごたる、どうもゾクゾクして寒い。お前五つの願いが足りんのだと私は申します。私を見て見なさいもうこの五つの願いを願わせて頂く様になって、この方風邪もひかんしひこうごとあっても、そのまんまおかげ頂いておるし一回も頭が痛いから腹が悪、どうか痛いからというて寝る様な事もない。
もうあれ以来私はよう風邪を引いてましたけれども、風邪も引かん様におかげを頂いて、いかにあの五つの願いの一番に掲げてある所の「体の丈夫を願え」と言う事がです、ね。神様の心に叶う通う願いであるかと言う事を解らせて貰ます。大体そげんあんたんごと言い、言いなさったちゅうごたる顔しとりますから私が申しました。ね、それはね私だって生身を持っておるから何時風邪を引くやら、またその為に寝込むような事になるやら、んとも限らないけれども、ね。
そのときには自分のその願いと言う物が欠けておったんだと、ね、私は悟らせて貰うて欠けておった所を一生懸命ならせて頂くんだと言う事を申した事で御座います。五つの願い、この願いと言う物がね、成就しないとそれは成就しない事もありますけれども、ね。是が神様の願いであり私共の願いであるという、願いが此処に一つになっておる願いがあの五つの願いなんです。ね。氏子信心しておかげを受けてくれよと言う事は、氏子信心して健康であってくれよ、氏子信心して家庭円満であってくれよと。
お前の代よりも子の代孫の代と、愈々子孫繁盛家繁盛のおかげを頂いてくれよとと言う様にです、その願いは全てが神様の切なる願いなのですから。その神様の願いを受けて私共が願うのですからおかげにならないはずがない。ね。おかげにならない所に不順な物があるからだまだすっきりした物が無いからだ。今朝の御理解を頂くとすんなりした物が無いから、すんなりとしたおかげになって来ないのだ。ね。どうぞ健康のおかげを頂かせて下さい、家庭の円満を頂かせて下さいそれで家庭が円満でないならばです。
是ほど神様が願いに願っておられる願いが成就しないならばです、まだまだ私の願いが足りんのだ、真が欠けておるのだ。又はその眼目である所のです、ね。天地の親神様の言うなら御神願成就の事の為に、その健康を持って行じさせてもらう、と言う様な一念と言う物が欠けておるからだと、只自分が楽になりさえすれば良いと言う様なね言う、言うなら軽い願いで願ってもおかげにはならない。
五つの願いの最後の所にある神願成就、ね、神の願いが成就する事の為に私共が奉仕する、ね、それが例えて言うならば、和賀心時代が世界に敷く。人間の幸福の所謂原点と思われる物はです、言わば心だ。その心もです、心が喜びそして心が和やかに、ね、そう言う心を目指す所に、その心におかげがあると天地書付に、はっきりお示しになっておる事実をです私共が受けて、それを世界中の氏子に広がって行く様な願いを持たなければならない。私は願わなければいけない。
五つの願いなんかでもです、本当に願いの内容と言う物を検討して、そうして願う所にです私のなら今日まで、例えば五つの願いををする様になって、なら今日は具合が悪いから、休まんならんと言う様な事がない、なら体の丈夫のおかげを頂いておると言う事は、是は体の丈夫の事だけではない、家庭の上にも子孫繁盛の上、五つの願いの全ての上に、是と同じ願いと言う物は何処の端にか間違いなく受けておると言う事を私は確信致します。体の丈夫だけの事ではない。
一切の上にそう言う願いが成就して行っておると確信します。ね。にも係らず例えばんなら私が病気をしたという、なら私とても生身を持っておる人間だから、何処にお粗末がご無礼が出来て、そして風邪を引いたり、腹が痛かったりする様な事があるかも知れないけれどもそん時にはです、お願いしよるとにこんなに風邪を引いたではなくてです、ね。私の方に間違いありとして、其処を確かめさせて貰うておかげを頂いて行こう、そして五つの願いを愈々確かな物にして。
その五つの願いが成就するに従ってです、世界に送らせて頂く所の和賀心時代、人間の幸福も神様が下さろうとしておるおかげをね、ただいち様に頂けれる様な言うなら、和賀心の世界を広げて行こうと言う願いを、ね、合楽の人達はそういう意味において御祈念、そういう意味においての御祈念係をお互い志さなければいけない。ね。私は此の念という念力と言う事がどんなに凄いものか、素晴らしい物かと言う事は、もう是はかねがね、いわゆる御祈念力と言った様な言葉で皆さんに聞いて頂きますけれども。
先日皆さんもご覧になったでしょうかテレビで、カナダから見えておる、まだ青年にしか、三十ぐらいにしか見えませんですね、年配の超能力者の実験が、あのテレビであっておりました。けたたましゅう子供達が私の部屋に入って来ましたから何事じゃろうかと思うたら、とにかく早くテレビば点けなさい早くテレビを、さあ時計ば持って来なさい、スプーンば、何じゃろうかと私思うてね言いますから、所がその何かそういう宣伝がしてあったそうですね。ねえ。
それでスプーンばこう持って来とります。時計もこう崩れたとをこう持って来とるんです。それがそのテレビでね、その方が年を送るとね、日本中の例えば崩れた時計が動き出す様な、ね。持っておる例えばスプーンが曲がってしまう様な念力の力を目の当たりに見せる、間違いなくに見せてもらうと言うので、あのまあやって来た訳です子供達が。ほうそりゃ珍しい事があるなと言うてまあ見せて頂いたんです。
まあ幸か不幸か私の方のはスプーンが曲がらなかった。時計も動かなかった様にあるけれども、御信者さんの皆さんの中には随分あったそうです。スプーンが曲がったりそれから崩れておる時計が、しばらくではあるけれどもコチコチ動いたり、そこには言わばその、哲学者とか科学者とかと言うまあその頭脳の人達が、ずらりその方を取り囲んでそのいんちきなんかありゃしないかと言う事を、まあ見ておる訳です。その中でやっておる訳です。その中でその方が言っております事はね、
例えばスプーンがまこう段々曲がると言う事でもね、私がそう言う念を是に念を込めると、このスプーンが折れてしまうんだと。大変な事ですよね。所がまさしく折れたです。所が何時もよりちょっと時間が掛かった。時にですねその方が言うた事に私は大いに心惹かれたんです。皆さんの中にです、あんな事しおるけれども、ね。そげなん事が出来るもんかと、出来にゃよかがと言う様な反対の事を思うて貰うたりした分では、是が支障が来たすと言うんです。
皆さん此処で見ておって頂く方も、またテレビを見ておって頂く方も、どうぞこの事が成就する様に、それが叶う様に心中祈念をして下さい。心で念じて下さいと言うております。此の辺の所です、ね。是はそうです、ね、こうやって私の話を聞いて下さっておる。私はもう口から出まかせ、神乍なお話させてもらう。今日は是を話そうじゃない。けれども一人そのう、私のお話に抵抗しながら例えば聞いておる人がありますとです、お話が止まる事があります。ね。
最近おかげを頂いて、そう言う例えば二つ三つの邪念悪念と言った様な物がです、反発する念がこちらへ響いて来ましても、それを此の頃は抗伏する、それを向こうへ押しやっていけれる様な物をが、段々この頃出来て来たなと言う事を自分ながら感じます。念と言う物はそう言う働きをするもんなんです。その人が言ってました。是を根悪用する、悪い事の為にはこう言う事は、あの出来ないと。と言う風にも言っておりました。ねだからそう言うその超能力者では無くともです。
私共が信心させて頂いて、信心の稽古をすると言う事は、そう言う一念と言うかね、それは真に荒唐無稽な感じですわね。その終わった時に三百件ぐらい、のから電話がかかる電話のスイッチが飛ぶ程しに掛かって来た。私の方は時計が動き出した。私のはスプーンが曲がった。ね、神経痛が治った、リューマチが治ったと言った様な者まで電話が掛かって来た。全国からその後にも沢山あったそうです。ね。
ですからそう言う、もうそれは何と申しましょうかね、人相が良いですね。もう実に人相の良い人です。言うなら、心に悪心邪心の恐らく無い人でしょう。ね、私共は其処ん所をです、先程末永先生がお話をしておりました中に、こう言う有難い雰囲気の中に毎日日暮らしのおかげを頂いておりながら、どうして此の様に不愉快な思いが続くだろうかと自分で言っております。人間の業です。ね。人間の廻りなんです。こう言う有り難い、言うなら朝から晩まで有り難くならせて頂く稽古をさせて。
言わばその事の為だけに専念しておる私がどうして此の様に不愉快な思いをしなければならんだろう訳が無い。訳は無いけれども自分の心の中にそう言う心が起きて仕方がない。皆さんもやっぱりそれがあるあるです。ね、其処の所をです私共が分からせて頂いてね、そう言う例えば訳もないのに腹が立つ、訳もないのに不愉快だそう言う心があっては人間の幸せを下さろうとしても、もうそう思うておるだけで不幸せですね。そこでそう言う元をです、私共が絶たせて頂くと言う精進をするのが信心であります。
信心をしておれば一年一年有り難うなって来ると、ね。信心をしておれば年が寄る程位が付く物じゃとも仰る。と言う事はどう言う事かというとね、只信心をしおれば一年一年誰でも位が付くと言う事でもなからなければ、んなら信心をしておれば誰でも一年一年有り難くなって来るかと言うと、有り難くなって来ないのです。ね。末永先生じゃないけれども、折角この一両日の不愉快な此の心の状態とは何処から来るものか、此のこ此の心と言う物が。訳もないのに何とはなしに不愉快で、不愉快でたまらん。
心が暗く湿っているばっかり。そういう心を私共の心の中に発見して、ね。それを一つ一つ取り除いて行くと言う修行こそが信心の修行なのです。そこを取り除かせて頂くたんびんに、有り難うなって行くのであり、其処を取り除かせて頂くたんびんに、いや乗り越えて行くたんびんに、年を取る程に位が付いて来ると言う事はそう言う事ではないでしょうか。ね、だから信心をしておりゃ誰でも有り難くなるという事ではない。
そう言うどうにも出来ない自分のその心と言う物を見極めさせて貰うて、そういう心を取り除いて意く清めて行くという信心、それを日々の改まりが第一じゃ信心は本心の玉を磨くものぞやと言う事になって来るのです。そう言う清らかな言うならば、誰よりも立派な心を持って念ずる時に誰よりも強い深い念、所謂神様が言う事を聞いて下さるその念が送られもする、自分自身も又その念のおかげを頂く事が出来るのです。ね。
人間は一番初めに申しました様に、頭が良いから悪いから器量が良いから悪いからで幸福が決まるのではありません。いうならば心次第なのです。私共の今学院に行っております、二番目の息子光昭高校受験の時に、三井高校を受験いたしました。ね、お百姓さんをする訳でもなく、まあ将来はお道の教師としてお取立て頂かなきゃならない宿命にある人なんです。ね、そん時に椛目からあの人の友達が、三人か四人か三井高校に、受験いたしました。皆んなが揃うて、此処にお願いに来ました。
子供達がそん時にね、あの三井の農学校ですねあの農、三井農高の上にもうそれこそね、もうそれこそ偉大な八波の旗を上にこう、是だけ学校があるなら是だけの大きさの旗をね、三井の学校の上一杯に張ってある所を頂いた。こりゃあんた方皆んな三井農高がよかつばい。そういうご守護の中に、金光様のいうなら八波の御紋章の、所謂その傘下というかね、そういう神様のお恵みの中に勉強させて頂くのだから、まあ皆んな一つおかげ頂かにゃいけんなあと。おかげでみんな通りました。
その事が私はどう言う様な事であろうかと。私は、栄四郎が商業学校へ、あちらこちらへ受けて出来なくて、結局商業学校にできた。その時にお礼を申させて頂いて、あおる時に、士農工商という事を頂いた。子供達が息子が四人おる。その四人の子供達がです、ね。長男が、普通高校ですから士でしょうね。所謂大学なら大学にも進学が出来れる言わば学校なんです。二番目が士農、農、農業学校です。三番目が浮羽高校へ、幹三郎なんです。士農工、一番下の栄四郎が商業学校。
そう言う事の為にお前は商業学校へやれ、お前は農業学校へやれと言うた訳じゃないでしょう。ね、それを私は今日改めて思わせて頂いたんです。士農工商と言う事は全ての職業という事にもなりましょうしね、すべての事だ全てのものだ、この中に一切が入っておるんだ、いうなら世界総氏子だという意味なんです。ね。農業学校の上に八波の御紋章の、あの旗を一面に頂いたと言う事はです、ね。所謂農業をしておる、世界中でですよ、しておる者の上に、そのひれいというか、輝きと言う物を頂く事が出来る。
士農工商とその五つの部類に分けたものが、人間の全てその中に入っておるんだ。だから言うなら普通高校、商業学校工業学校と言う風に、八波の御紋章の旗が上にこうかぶる、天地を被う事になるのですね、世界中を被う事になるのです。わあ是こそがまさしく和賀心を時代を創る、神様の理想のおかげの印だと言う風に今日は改めて私は思わせて頂きました。ね、だから合楽には確かにそう言う様な物が足ろうておる。ですからその一人ひとりがです、私は世界総氏子身上安全。
世界真の平和を祈らせて頂くと同時に、世界に和賀心時代を敷くという、その和賀心と言う所に焦点をおいて、私共がねその一念力を燃やさせて貰うて世界総氏子身上安全を願わせて貰、世界に真の和賀心時代が敷いて行けれる世界の顕現を願って行く。そう言ういわば働きが現れて行く事を願いとする。こういう素晴らしい願いをです、私共が本気でさせて貰わなければならないけれども、それが本気から口で唱えておる事だけ。合楽教会大発展という祈り、願いと言う物でも、ね。
そういう内容を持った願い、合楽教会が愈々大発展ををして行くと言う事は、世界に和賀心時代を敷く所の祈りというか念、念、祈念と言う物がです、ね。千人よりも万人の者で願った方が大きな力になると言う事が解るでしょう。しかもその念と言う物がですそれこそ、ね。どういう力があるかと言うとです、是が真っ二つに折れたり、またはスプーンが曲がったり、止まっておる時計が動き出す働きを念の力と言う物は持っておるんだと。親先生があげなん大きな事ばっかり言うてと言う事は。
それを願いを単体にして行く念を送る事になるのだと。ね、だからその霊能者の方が言っておる様にです、どうぞ私のこの今スプーンが曲がる様に、曲がる様にと祈って下さい、願って下さい、そう思うて下さいとと言うておる。ね。だからなら皆さんに私がお願いをする様にとこう聞いてもらっておる事はです、言うなら親先生が祈っておる祈りが成就致します様にと言う事。ね、そう言う祈りがね一つよりも二つ、十も百と言う風に固まって行く、強いものになって行く時に愈々大。
合楽教会大発展のおかげを頂く事が出来ると私は思うのです。合楽教会大発展のおかげを頂くと言う事はです、只今申しました様に、世界に和賀心時代を敷く所の、言うならそう本家本元であって、此処からそう言う念が発せられて、そういう強烈な願いと言う物が世界中に広がって行く所の働き、それにはお互いが一人ひとりがです、ね。今の心で願っても聞いては下さらぬ野だからもっと増しな心を頂いて、そのもっと増しな心を持って、愈々神様の願いである所の願いが。
成就致します様にと言う念力を、いよいよ強い物にして行かなければいけないです。そういう祈りそういう願いと言う物は有り難いものですから、必ずそれが跳ね返って来る。人を呪えば穴二つといいます。ね。矢張り念の中にも色々な念がある。怨念邪念。ね。もうあれが憎うて憎うて堪らん。あれがそれこそねわら人形に五寸釘じゃないですけれども、ね、そういう悪念でも、その念と言う物はやっぱり一つの霊波となって響いて行くのです。念波です。ね、
だからそう言う様な事をです、人を呪えば穴二つと言う事に返って来るんです必ず。んなら依りたから祈り、良い念と言う物を私共が、んなら愈々神様の心に通う様な素晴らしい念を、ね。一心発起して祈らせて頂く事になれば、そういう良い、有り難い念がこちらに返って来るのです。だからこちらの方へ愈々どうにも出来ない私を見極めた時にです、そのどうにも出来なかった私が何時の間にか、さあ私でもたまにはあります。けれどもおかげを頂いて此の頃はこんな不愉快な思いとか。
嫌なあれが段々無くなって、もう此の頃は本当にああ、ね。本当にそれを感じない程しになって来たと言う事は、信心しておれば一年一年有り難うなって行くと言う稽古をしておる。信心をしておれば一段一段と位が付く物じゃと仰る、その位を頂いて行っておる。ね。今朝からも私、聞いて頂いたんですけれどもね、久留米の古賀さん所が火事で丸焼けになった。二十何年合楽教会が始まって、信者さんの家で火事になったと言うのは始めてであった。すぐ明くる日は、あの御礼に出て見えた。
昨日一昨日はその事に対して、わざわざ改まった、御礼お届けがあった。親先生今までの信心が間違うておりましたと。是からもっとましな信心をさせて頂きたいと思いますから、どうぞよろしくという御礼のお届けがあった。もうその時点でです、ありがたいと受けておる。そういう時に位が付くもんですよ。信心しおるとにどうしてあげこつが起こったじゃろうかと、悔やみ廻っておる事には位は付きません。幾ら長年信心しおっても有り難くはなりません。ね。
その全部の事を思うて見ればまた、本当に神様のご都合であると言う事を思わなければおられない。ふうが良かったと言い、ふうが悪かったと言い、ふうが良かった時にはおかげであり、ふうが悪かった時にはおかげではない。いやふうが良い時でも悪い時でも、ね。自分の思いが成就する時でも反対の事になるでも、是一切神様のご都合であるという、もう此の深さ広さは限りがない。神様のご都合だ。
として私は頂かれた時にです、ね。丸焼けにならせて頂いて、それこそ無一物の中からです、立ち上がろうとする意欲が古賀さんに生まれて来た。もう大丈夫もう家に帰った時に打ち揚げておった。もう家は仕方がないから、隣近所に移らん様にというお願いを電話でさせて貰う時の自分の心の落ち着きと言う物がです、自分ながら不思議な位であったと言うておられます。ね。今までの信心ではいけなかったんだと。今までの信心では間違っておったんだと。思い方が間違っておった。
是から思いを替えて新たな真の信心にならせて頂きたいと言う念願。ね。そういう例えば、普通で言うならば不幸に見舞われながらもです、それを有り難く元気な心で受けて行くと言う時にです、初めて私は位と言う物が付くもんだと。今朝から朝の御祈念に参って来てから、昨日、お手伝いやら沢山毎日ありよりますから外されんけれども、勤めておられる会社の方で、今日はだけは是非出てくれとこう言う。その会議が熊本である。所がまるっきり私一人事の為に、の、会議の様な会議で御座いました。
阿蘇をこう、阿蘇山をこう見晴らす所の大きなホテルでの、何か祝賀の様な、宴会の様なものあった。本当に私の心に、何か神様がこう、何か下さっておる様に思うた。ね。其処で、あの、決定したいろんなおかげの事を、今日お届けしておられましたがです、ね。今までの例えば位が、もういっちょ飛躍した位になったと言う事であった。はあこりゃもうあんたが今度、新たな信心をさせて頂くと言う事になった。もう是がおかげの、なら受け始めというの、というて今朝から申しました事でした。
言うならばそれこそびっくりする様なおかげである。ね。年をとる程位が付く物じゃと言う事はね、信心しよれば有り難くなるのだというけれども、只信心しおっただけで、有り難くなるのでもない位が付くのでもない。そういう例えば雨にあったり風に様々な事にあったその時点、時点でですそれを有り難い神様のね言うならご都合に間違いはないと頂けた時にです、私はそういう時に位が付くんだと思うですね。
なら古賀さんが今まで、ね。例えば此の辺までの位だったのが、此のくらいに今度の火事を境に位が出来た仕事の上でも。勿論給料もそれだけ多くなる事は間違い、もういうもさらなるです。ね。私共がとても天地の親神様がです人間氏子、もうなべての氏子にです、ね。信心しておかげを受けてくれよ幸福になってくれよと願う様に言うておられると言う事はです、そういうおかげ信心すればおかげの受けられれる内容を持っておるんだ。いいや私は頭が悪いから、私は器量が悪いからと言った様な事ではない。
自分の心次第でです言うならば、神様が下さろうとする所のおかげを頂く事が出来る。そのおかげというのは人間の真の幸福であります。ね、そういうおかげを願い願わさせて頂いての、お互い信心にならなければならないと思います。私共の子供の4人の子供の士農工商と言う此の事なんかは、もう実に深い意味があるんだと。是は今毎朝あのお初穂整理する修行生の所で今栄四郎がお手伝いさせて貰ます。成程やっぱりそういう学校出たごとあって、そりゃあもうそろばんなんかはそれこそ鮮やかなもんですね。
やっぱ稽古です。もう本当商業のしょの字も考えていなかった、商人のあの字も考えていなかった。そろばん持つ手になろうと言う事は考えてもいなかったのが、結局は商業しか出来なかったから商業行ったというけれども、神様がわざわざ商業学校よってです、言うならば世界の商業のためにという、農業の為に工業の為に、ね。様々な所へおかげを下さろうとする働きの見本、手本と言った様な物をです、合楽に示しておって下さる事を、私は確信致します。
ですから皆さんとてもです、そういう祈り願いの中にあってですから、皆さんもそういう祈り願いを本当なものに強力なものに、よりましな有り難い心で、それが念じられる私共になる事を願わなければならないと言う風に思うのです。ね。合楽の御神縁を頂いておる方達は、皆んなそういう天地の親神様の念願がです、ね。叶うて行く事の為の言わば御祈念係と自覚して、愈々信心を進めて行きたい。そういう尊い有り難い祈りを送りたい。世界中の氏子に送りたいと思います。
どうぞ。